昭和48年12月20日 朝の御理解
御神訓 一、道教えの大綱
「清き所も汚き所もへだてなく天地金乃神はお守りあるぞ。わが心に不浄を犯すな。」
確かにまんべんなくごと言うても、天地金乃神様のお守りの中であると、問題は自分の心に不浄を犯すなと。そこんところが信心を頂きませんと、御教えを頂きませんと分らん事だとこう思うですね。昨日教徒新聞がまいっておりました中に、こんなお話が出ていました。おへこさんと京都の西陣織りの女工さんの事を、おへこさんというそうです。それは男が「へこ」をかくあのへこじゃない。というのは幣子と書いてある。
昔は御幣になる布を織った大麻ですね、幣あれにこう下げるでしょうか布を、あれを織った織子の事を幣子と書いて幣子とこう読む。お幣子私は今日この清き所も汚き所も、とこうある、私は今日御神前で頂くのは昨日読ませて頂いたそのお幣子さんの事を頂くのです。ですから、只これを語呂だけでいうなら、お幣子というと何かこう汚ならしい感じがします。けれどもそれを幣子と頂いたら、尊いものと言う事になります。
ははぁあぁそう言う事だったかなとこう思わせて頂いて、その読ませて頂いた内容を聞いて頂こうと思います。昔は勿論手織りばかりでした。それが機械万能と言う事になって、機械織りになって、それでそういう織子さん達も、みんなそういう大きな会社に、引き抜かれてしまって、小さい手織りでやっておるところの、人達はほとんど居なくなってしまう 中に十五か、16くらいから、その事を身につけて、大変上手な女工さんが、あの人だけは、給料が高いからというても。
何と言うても自分はその仕事が好きなのだ手織り、自分で織り上げて行くそれが楽しみなんだ。だから高い安いじゃないというて、その工場に残ったというのです。まそう言う様な心掛けの人ですから、その辛抱強さを見込まれてある良い所にもらわれた。所がそこは有名なとてもあそこに嫁が来ても、あそこのお母さんじゃとてももてあすまいと言う様に、大変この人いじめの名人と言われる位なおばさん、お母さんがおられた。
ところがそこ嫁いられた息子さんは会社員、それが行ってからすぐその翌日にまだ、いじめようと思うてもいじめる暇のないくらいの時ですね、その翌日ですからお母さんに、これは私が娘時代からずうっと貯めておりました預金通帳でございます。丁度五十万貯まりました。もうお母さんもう私は、御主人がああして働いて下さいますから、私にはもう何も要らんことになりましたから、これはどうぞあなたが自由にお使い下さいというて、それでまず、お母さんが度肝を抜かれるという感じであったらしい。
それからお母さん、私に一つお願いがございますけども、私はそのお幣子としての仕事それがとにかく好きなんです。その仕事をする事がそれで給料も十万近くとっていた。技術で買われておるわけですね。ですから、只、仕事に出させて頂きたいと言う事であった。そしてその中から一万だけ私に下さい。後はお母さん全部お使い頂いて良いですからと。もうまた第二に肝を抜かれたという話ですよ。
それからそれこそ近所の者がたまがるように、どうしてあげんこっとりともいわんように行くじゃろうかとたまがるように仲良う円満にいって、丁度十年したらそのお母さんが亡くなられたという。そして亡くなられてから驚いた事にはね、自分が持って行った五十万、それから月々十万の給料から一万だけ自分が貰うて九万だけ全部そのまま、その嫁さん名義で預金してあった。
私は只それは信者とか何とかではないですけど、私はそういう心にならせて頂くというか、これは必ずおかげだけは頂くでしょうね。家庭は円満になるでしょうし、商売も繁昌するでしょうし、仕事も順調に行くでしょう。夫婦の仲も親子の仲も円満に行くでしょう。その位にも私は辛抱強さというか、仕事に惚れ込んでとにかく給料の段、給料が高い安いじゃない。とにかく私はこの仕事に打ち込んでそれが好きだという。しかももうそこに何というですかね、心に不浄が一つもない。
心に不浄を犯すなと仰る。お母さんが私が持っとる金に目をつけちござる。はあやるもんかと言った様な、と言う様なもんじゃなくてですね、もう始めからお金は主人が給料を取ってきて下さるから要らないとこういう。だからお母さんあなたが自由にお使い下さいと。そして私は仕事が好きだから、仕事にやらして下さい。十万取りますけどそのうちの一万だけ私の方に下さい。そして後は九万円はお母さん、あなたが自由に使って頂いてよいから、それだけをお許し頂きたい。
そういう例えば不浄がない。そして十年間親子夫婦円満におかげを頂いたがお母さんが十年目に亡くなられてから、尚更またびっくりする程しのおかげを受けておられる事はです、その給料も、持参金も全部そのお嫁さんの名義でね、根性がしっかりしている人はやっぱりその、そういうところの根性がしっかりしとる。問題はこちらの頂き方受け方。それを何とはなしに。
例えば心に口だけはお母さんお母さんと言うても、心に不浄があったらそれが何とはなしに、相手がいじめたい様な気になって起こってくるのは、そこんところにあるのじゃなかろうか。とにかくこちらの不浄心が、相手まで又不浄心を起こさせる事になるのです。決して相手が悪いのじゃないです。自分自身が悪いのだ私はもし信心でそういう我情がとれ、我欲が取られる様なおかげを頂いたら、御神徳を受けると思うですね。
そういう生き方になったら、おしいかなこれは只、そいう信心ということではないそういう心掛けの人ですから、そういう生き方になればです、やはりおかげを受けます。例えば、イワンの馬鹿ではないですけれども、もう一切が自分が馬鹿になりきっとる。そういう生き方にはもう、絶対おかげが伴うものです。これは信心がなかってもそうです。けれどもお徳にはなりません。そのイワンの生き方にしろ、今のそのお幣子さんの事にせよです、信心で馬鹿になる、信心でそういう自分の心に不浄を持たない。
いわゆる限りなく美しゅう、しかもその仕事が好きだというところ、又人は給料が高いというてどんどんかわれて行ったけれども、自分だけは自分のしているその仕事に惚れ込んで、仕事が好きだから、給料の安い高いじゃない。だから私共は、おかげも頂きたいが信心の事になってまいりますとそういういき方なるならばお徳を受ける。私共がね、する事,なす事の中に、心に不浄を犯すような事はないだろうか心に不浄を犯しては、神様に御無礼になりますから、おかげになりません。
清き所も汚き所も隔てなく天地の神が御守りあるぞ。わが心に不浄を犯すなと。一つの事でもです、お幣子さんと頂けば語呂から言うたら何か汚らしい感じがするけれども、それを字に書いてみますと幣子と書いてある、御幣の幣である。いわば尊いものである。例えば性欲というたら、何か汚らしい感じがする。だから汚らしい感じがするところでは本当のおかげは頂かれません。
いうならば、御性欲となってくると、神様に頂いたものとしての有難さというものがある。だから私共にはすべて、そのことの中にです、御の字がつけられる。御教えを頂いておる事柄の中にでも、いやな事柄でも、自分のにこにこしたい様な事柄でも、御の字をつけるとです、合掌して受ける事になる。だからおかげになるのです。自分の都合の良いことには御の字をつけられるけれども。
自分の都合の悪いことには、いうならもうこげなことがともう心に不浄をかけておる。もう不浄をしておる。これはおかげになるはずがありません。信心によってそう言う所を分らせてもろうてです、御の字をつけて、いうならすべてのことを御事柄として受けて行くところに、いうならば臭いものも、辛いものもいうならば、甘いものも御の字をつけての頂き方になってくる。御の字をつけさせて頂く頂き方がです、私は清きところも汚きところも隔てなく頂く心。
結局は信心によって、有難いとういう心を頂かしてもろうて、道理を分らせてもらわなければ。それを御の字をつけて頂く事は出来ません。わが心に不浄を犯すな、御の字をつけるところに不浄はない。それを例えばお幣子という、いうなら語呂がからだけ感じたら、不浄がつくけれども御幣子というたら、何とはなしに有難い尊いものとして頂ける。そこから有難い尊いおかげが受けられる事も道理でございますよね。
どうぞ。